ファッション豆知識 #6

おかげさまで、トンボ・ユニフォーム研究室にたくさんの質問をいただいています。
その中で今回はセーラー服に関する質問にお答えします。
内容は、問合せの多い質問を選び、回答を列記しています。

もともと水兵の服だった=正解です。19世紀半ば、絶頂期の英国海軍のシンボルであった水兵の服を着た英エドワード皇太子の姿がかわいいと評判になり、子供服として普及しました。20世紀に入って、マリーンルックが流行し、大人も着るようになり、日本にも紹介されました。

セーラー服、もともとは水兵の服だった?

19世紀後半から20世紀前半にかけて、世界中で幼稚園から高等学校年代の学校で、制服に取り入れられました。日本で今のような上下に分かれたセーラー服を最初に採用したのは福岡女学院で、大正9年(1922)米国から宣教師として赴任したエリザベス・リー校長と学校関係者の努力の賜物でした。

正式な統計は存在しませんが、世界でセーラー服制服が採用された最盛期は20世紀前半で、第二次世界大戦終結後、自由主義圏では米国型自由主義が幅を利かせるようになって減少したようです。しかし、共産圏ではピオニール(共産主義を学ぶ生徒)男女がセーラー衿にリボンをつけた、セーラー服の亜流ともいうべきスタイルであったため、相当数がセーラー服を着ていたと考えられます。現在、学校制服としてのセーラー服人口が多いのは、日本だと思われます。

まず、それまでの着物に袴の女学生スタイルを一挙に陳腐化させたカルチャーショックの大きさが考えられます。厳密に言えば、着物に袴の女学生スタイルは、制服ではなく、学校が定めたスタイルだったといえます。女学生の制服概念は、大正7年に平安女学院がセーラー衿のついたワンピース型の洋服を採用し、市民がそれを高評価して定着したからであると言えます。当時の日本はまだまだ発展途上国であり、実際の生活に西欧文明が入り込み始めた西欧崇拝の時期でしたから、それまでの服装とまったく違うセーラー服も、異質だがモダンであるゆえに肯定されたと考えられています。

日本でセーラー服が普及したのはなぜ?

少し専門的な話になりますが、セーラー服は、上着が身頃が2面体(前と後ろ、2枚の布を縫い合わせ体を覆っている)のシンプルな構成、スカートも緩やかなひだがある簡素なものでしたから、作るには、生地と型紙さえちゃんとしたものがあれば、少し裁縫を学べば縫うことができました。そのため、当時いたるところにあった家庭学園(正規の学校ではなく、女性に料理や裁縫、お花やお茶などの素養を身に着けさせる花嫁学校的な存在、後に専門学校になったところも多い)では、裁縫教育で、後輩や妹のセーラー服を縫わせるところも多く、ごくポピュラーな存在となっていったのです。

セーラー衿は本来、本体と切り離された付け衿になっています。
もともとは、髪の毛の脂分で衿周りが黄ばむのを防ぐため、取り替えられる付け衿にしたものです。

水兵の服として見た場合、以下のような効用が考えられます。

  • 横一直線で肩幅を広く見せ、剛直さや体格を強調した。
  • 丸く縫うのは難しいため直線になった。
  • 全体のデザインバランスを考慮して直線になった。
  • 衿を持ち上げて、日差し、風や雪、雨が首や顔にかかるのを遮ることができるよう、長方形になった。
  • 戦闘では早く相手を発見するのが重要なため、衿を利用して集音したり、光を遮ぎり見やすくした。

戦闘員でもあった水兵に怪我は付き物で、非常時には止血帯や汚れ落としとしても用いられました。
また色で所属や船での役割を表示する役割もあったようです。

水兵の服は、上下分かれていて、上衣,下衣(ズボン)とも、脱ぎやすくなっています。
これは、海に落ちた時、特に冬生地だと海水を含んで重くなり、生存率が低下するのを防止するため、すばやく脱げるように考慮された結果です。
また、怪我をした時の手当て、衣服に火がついた時、泳がざるを得ない時などを想定して、すばやく脱げるように考えられています。
胸元が開いているのも同様の理由ですが、それ以外に、窮屈さを嫌う、暑さ対策(服の上下をを開放することで風の通りをよくして、身体から出る汗や熱を逃がす)理由もありました。

日本では、現在でも中学校の過半数、高校も2割ほどがセーラー服を制服或いは標準服や推奨服として採用しています。
正確な統計はありませんが、今でも数十万人が3年、或いは6年着るセーラー服は、Gパンと並ぶメジャーアイテムだと言えます。