ファッション豆知識 #4

詰襟と学ランは違うのか、学ランという言葉はどこからきたのかと、ご質問をいただくことがあります。学ランとは、誰かが商標登録したとか、正式名称として流通していた言葉ではなく、例えば原チャリ(正式には原動機付き自転車)のように、なんとなく呼ばれていた略称のようなものなので、その根拠を断定するのはむずかしいのですが、『学ラン』なる言葉が一般化しだした明治期の時代背景も考慮して、想像をめぐらせて見ました。

明治初期、洋装自体が珍しい頃に、当時相次いで設立された帝大や私大の学生が着始めた詰襟や帽子は、一般庶民には、軍人と見分けがつかず、エリートへのあこがれと反発のシンボルとなっていました。


当時、読み書き算盤や儒学以外の、法学、医学、教育学、理工系学問などは、もっぱら洋学と呼ばれ、新時代の学問と位置付けられていました。
しかし、それを学ぶ学生は、エリート意識の裏返しとして、洋学を、鎖国時代の名残であった蘭学(当時、すでに古くさい学問といった意味合いで使われていたようです)と呼び、蘭学を学ぶ自分たち学生の着るものを、半ば揶揄して蘭と学をひっくり返し、 学蘭と称するようになったと思います。(余談ですが「新聞種をネタ」と呼ぶ隠語の類だと理解すればわかりやすいのではないでしょうか)

学ランの由来

太平洋戦争時、出征する学徒が、好きな女性に何か自分の思いが伝わる大事なものを渡したいと考え、胸の第2ボタンを渡したのが始まりです。もう少し詳しく書けば、あるところに兄弟がおりました。弟はまだ、当時数少なかったエリート学生でした。 その頃多くの人と同じように兄は兵役に就く前に結婚し、出征した後には兄嫁と弟が残されました。

弟はいつしか夫の身の安全を気遣う兄嫁に惹かれていき、兄嫁もそれに気がついていましたが、 国のために戦っている兄や夫を思うと、とても、そのようなことを口に出せる状況ではありませんでした。

やがて戦局が悪化し、弟にも召集令状が来ました。そして出征の日、物資欠乏の折から、弟はまだ軍服ではなく学生服を着て出征したのですが、戦地でいつ死ぬかも知れない身ですから、兄嫁に切ない思いをを伝えたくて、また自分の分身として持っていてもらえるものとして胸の第2ボタンを渡したのでした。

なぜ第2ボタンかと言えば、学生服は、自分の誇りである学生の証であり、自分の肌身に接していたものであること。また、こころ(胸を指す)に一番近い位置にあるのが第2ボタンだったからです。そして、小さな金属ボタンは、ずっと変わらず小さくても大事にしてもらえるシンボル要素があったからと思われます。

この話は、戦前に既に知られていたようですが、軍国主義の時代では、公にできる内容の話ではなかったため封印されていました。しかし、戦後、しばらく経ってこの兄弟を教えた恩師がこの話をさる校長に昔語りしたところ、校長が感銘し生徒に聞かせたところから徐々に話が広がったと聞いています。