日本の学ぶスタイルの変遷
(昭和・平成・令和)

世界大恐慌からまもなく、日本は日中戦争に突入。その後アジア全域に戦争が拡大していく中で、軍国主義教育が幅を利かせ、思想統制のため授業内容にも制限が加えられ、カリキュラムにも軍隊から派遣された教官による軍事訓練が取り入れられました。戦争末期には学徒動員や女子挺身隊、また児童疎開など、教育は悲惨な状況に陥っていきました。生徒たちの服装も、空襲を想定した防空頭巾や、身元をはっきりさせるための名札、ズボンには足さばきを良くするためのゲートルが必須となる状況でした。物資輸入が滞り、生地なども手に入りにくくなる中で、代用素材や、各地の特産生地による制服も登場しています。

絣(かすり)生地で作られたセーラー服(復元品)

絣(かすり)生地で作られた
セーラー服(復元品)

物資欠乏で制服生地が手に入らなくなったため、各地で特産生地を使ったセーラー服が作られた。また、非常時を想定した動きやすさから、スカートに変わってもんぺが奨励された。このもんぺセーラー服は、史実を元に、作州絣(久米郡美咲町 ひな屋作)で復元した。

ゲートルを巻いた生徒

ゲートルを巻いた生徒

帽子や水筒は必需品で、足さばきを良くするため、ズボンにはゲートルが巻かれ、長距離歩行に備えた。ちなみに、遠足の語源は、徒歩で遠くまで行くところから来ている。

戦後の混沌の中、昭和22年(1947年)学校教育法が公布され、現在の教育制度が整えられました。その後、戦後ベビーブーマー(団塊世代)が大挙入学するにあたって、学校新設や校舎増設が盛んになり、また学校給食が始まってミルク(当初は脱脂粉乳)、パンなどが供され、日本の洋食化進展の素地となりました。日本が後に工業大国となる伏線は、もともと勤勉で研究熱心な民族性に加え、伝統的に国民が教育熱心だったこと、生徒の旺盛な知識欲と競い合い、それに応える高レベルの教育、そしてその教育を受けた生徒が大量に存在したことにありました。

戦後復興が進むにつれ、雇用が増大し、中卒は「金の卵」ともてはやされ、都会への集団就職が見られるようになります。その一方で、同時進行したのが、団塊世代の高校進学や高学歴化で、受け皿である高校や大学の新規開設や増設が進みましたが、需要を満たすには少なく、狭き門に受験生が殺到する受験過熱時代へと進みます。また、進学した学生が、学校や社会に対して積極的に発言、学生運動を起こし、それまで平穏だった学校運営にも試練の時が訪れます。別の側面から見れば、この時代は生徒指導のあり方が揺れ動いた時代でもあります。制服や頭髪の乱れは心の乱れであるとする考え方から、制服や頭髪、化粧などに関して事細かな規則が定められ、また校内暴力の増加に対処するため生徒指導は厳しくなりましたが、その反発も大きく、1970年代には大手新聞社が管理教育批判の観点からキャンペーンを繰り広げるほど関心が高まりました。
また、各地で自由や個性を尊重する意味合いから制服廃止の動きも盛んになり、地域的な偏りはあるものの、制服を廃止する学校が増えたのもこの時代の特徴です。

東京オリンピック女子バレーチームユニフォーム(復元品)

東京オリンピック女子バレーチームユニフォーム(復元品)

ユニフォームの歴史を語る上で、昭和39年(1964年)の東京オリンピックと、その6年後に開催された大阪万博は欠かせないイベントであった。金メダルを取った女子バレーボールチームのユニフォームは、日本で一般的だった布帛のゆるめブルマーと、ニットトップスだったのに対し、対戦相手のポーランドやソ連チームはニットのぴったりブルマーでスマートな印象。その影響から、東京オリンピックを契機に日本でもぴったりブルマーが普及することになった。

大学を中心とする学生運動が下火となった昭和40年代末から50年代に、変形学生服と呼ばれる、通常の制服とはプロポーションが異なるものが登場。短ラン、長ラン、ボンタン、また極端に長いスカートのセーラー服などが一部の生徒に流行しました。これら変形学生服への対策として、制服業界が標準学生服規格を定め、規格外制服の駆逐を図ったのもこの頃です。ちなみに、当社は規制強化を進める一方で新しいスタイルを提案することが必要と考え、トラッドファッションにヒントを得たブレザースタイルをいち早く提唱しています。

ツッパリと変形学生服

ツッパリと変形学生服

制服といえば詰襟、セーラー服だった時代、大半の生徒はごく普通に制服を着用していたのに対し、一部の限られた生徒が着用したのが変形学生服である。モーレツ社会への反発と虚無的な生き方のはざまで登場した『ツッパリスタイル』は、基本は極端に長いか短いなどプロポーションバランスを変えることだが、裏地やボタン、細部に至るまで、制服の範疇を踏襲しながら、怪奇で凶悪なイメージに改造された。

時代のあだ花 スケ番スタイル

時代のあだ花 スケ番スタイル

男子の変形学生服に相当するセーラー服が、スケ番スタイルである。くるぶしで小さく丸め込んだソックスと、履きつぶした靴、長大なスカートに短い上着を着て、腹部も見えるスタイルに、剃り込み眉毛などは、当時流行ったテレビドラマから『スケ番スタイル』と呼ばれた。ちなみにスケとは女のことで、スケ番は女番長の意味。

昭和40年代中頃から団塊世代が家庭を持ち、ニューファミリーと称される新しい価値観とセンスを持った家族層が出現します。その子供たちは後に団塊ジュニアと呼ばれ、人数の多さに加えて、良くも悪くも天衣無縫で、新感覚世代として社会的にも影響力がありました。その団塊ジュニアが高校に入り始めた昭和50年代後半から人気となったのが、オリンピック選手団の制服をイメージさせる、エンブレムと金ボタンのついたブレザースタイルでした。

嘉悦学園ブレザースタイル(東京)

嘉悦学園ブレザースタイル(東京)

嘉悦学園が1984年(昭和59年)から採用したブレザーとタータンチェックの制服は、同時期に採用された品川女子高のキャメルブレザーなどとともに、当時は画期的なスタイルとして人気を集め、全国に波及するきっかけとなった。英国留学経験のある当時の副理事長が発案し、三越百貨店と当社が共同で企画、何度も試作して完成したもの。

団塊ジュニア世代が巣立っていき、それまでとは一転して少子化の時代を迎えます。生徒にとっては目標が見えにくい時代となり、また社会規範の緩み、ゆとり教育による授業時間減少と競争意識の欠如など、さまざまな要因から学力の長期低落傾向が鮮明になります。
また無気力・無関心・無責任の三無現象、援助交際の流行、メリハリのないだらしない生活態度など負の側面も目立ち、その克服をめざしてゆとり教育や躾の見直し、一貫教育化、単位制チャレンジスクールなど、さまざまな試みがなされる時代に突入していくことになります。

着崩し高校生

着崩し高校生

高校生そのものが脚光を浴び、20世紀末に登場した安室奈美恵ファッションに触発された、高校生ファッションと呼ばれる、独特のプロポーションと着こなしが流行った。
しかし、一歩間違えばだらしなくみだらな着崩しとなり、ひんしゅくも買った。

着崩し高校生

着崩し高校生

いわゆるまともな着こなしを否定する風潮はいつの時代にもあったが、20世紀末から21世紀初頭は特に社会規範の緩みが顕著になり、着崩しが常態化した。
男子は、米国のラッパー(ストリートダンサー)や、スノーボーダーを真似たスタイルに親近感を覚え、スラックスのずり下げ、シャツの外だし、胸元をルーズにするなど、制服をルーズに着こなすことが流行った。

ファッションにもライフサイクルがあります。いつの時代にも、行き渡り見馴れるようになったスタイルは、爛熟期を経て終焉し、新しいスタイルに取って代わられる運命にあります。 ブレザー制服で見れば、1980年代からじわじわと広まったスタイルは、当初はトラッドイメージからスタートしていますが、やがてトラッドイメージは影を薄め、1990年代半ばからはコンテンポラリーテイスト(その時代風)に変化しています。そのスタイルがほぼ行き渡った21世紀初頭、目立つのは、腰パン、超ミニスカート、シャツの外出しやリボン、ネクタイのズリ下げ、靴のかかと踏み潰しなどルーズな着こなしで、爛熟期の様相を見せました。
その後、21世紀はじめには、ライフスタイルブランドとのコラボレーションデザインの制服が登場していきます。

令和になりSDGsの浸透もあり、多様性に配慮した、性差を感じさせない制服の考え方「ジェンダーレス制服」の採用校が増加しています。「生徒の個性や意思を尊重した取り組み」と評価されています。
「ジェンダーレス制服」のポイントとしては、「女性体型の方向けのスラックスなど自由に選択できるアイテムを採用し、選択肢を増やすこと」や「スラックスやスカートのボトムを同じ色や柄にすること」、「カーディガン、ベスト、ブルゾン、パーカー等の男女で共通して着用できるアイテムを採用し、性差を感じさせないこと」などが挙げられます。
2020年度より福岡市立中学校、北九州市立中学校にて詰襟・セーラー服の標準服から、初めてブレザー型の標準服が導入されました。その後も全国各地の自治体で検討が進んでおり、性の多様性に対応する制服は今後も増えていくことが予想されます。

ジェンダーレス制服

ジェンダーレス制服

女性用のパンツスタイルやリボン、ネクタイも選べるアイテム展開。スラックやスカートのボトムは同色を使用している。