日本の学ぶスタイルの変遷
(明治・大正)

明治とは、泰平の世に慣れた日本が、欧米列強のアジア植民地化を目の当たりにして突如目覚め、政府に強大な権限を持たせ国を挙げて近代化を急いだ時代だと言えます。その背景のもと、それまでの漢籍を中心とした教養主義の教育も、全面的に見直されました。
明治5年(1872年)、国民自身が身を立て、智を啓き、産をつくる教育観のもとに、フランスに範をとった学制が公布されました。明治政府は、それまでの藩校や寺子屋など階層別教育システムを大胆に捨て、先進欧米諸国に倣おうと決意しましたが、この決断がなかったなら、今日の日本の発展はなかったでしょう。また洋風化を進め、和服が日常着だった時代に、近代教育を象徴させるため洋装(詰襟、背広)が採用されました。ただ、洋装は理念先行だったため簡単には広がりませんでした。帯刀や髷を禁じる発布に続き、明治天皇自らが、フランス風の大礼服姿で国民の前に登場して洋装をアピールするに及び、ようやく普及し始めました。

帝大詰襟 明治19年(1886年)採用(復元品)

帝大詰襟
明治19年(1886年)採用(復元品)

当時唯一の大学だった帝国大学の制服。金ボタン式詰襟の始まりとなった。江戸時代の漢籍偏重の古典教養主義教育を否定し、近代教育を推進する象徴として、当時一般的だった和服ではなく洋装を採用した。
一般大衆と区別される選良性、風貌の端厳(引き締まった顔と態度)、帰属性(国と大学への帰属意識)、兵式体操、行軍旅行(徒歩による規律正しい集団連泊旅行)、洋式寄宿舎で寝起きする必要性から、当時は機能性と見栄えに優れるとされていた陸軍制服を手本に採用された。

帝大詰襟 明治19年(1886年)採用(復元品)

帝大制服・制帽

(写真提供:東京大学大学史資料室)

帝大詰襟 明治19年(1886年)採用(復元品)

三越少年音楽隊夏の服装

(日本洋装史より引用)
詰襟や折り襟は当時の最新洋服だった。ちなみに、音楽隊の制服は人気があり、予科練制服も海軍音楽隊制服がオリジンとなっている。

帝大詰襟 明治19年(1886年)採用(復元品)

学習院詰襟
明治12年(1879年)採用
(所蔵 学習院大学史料館)

公家や華族子弟の教育から始まった学習院が明治12年に採用した詰襟。当初制服はなかったが、生徒間で服装に関する競争が起きるなど弊害が目立ったため、制服を採用することになった。当時の宮内高等官型を採用し、冬は紺、夏は白色で、同色の蛇腹を縫い付けたホック式。徽章の桜花は『敷島の大和心を人問はゞ朝日に匂う山桜花』の歌の意味を表している。

帝大詰襟 明治19年(1886年)採用(復元品)

当時の学習院生徒たち

(写真提供:学習院)

明治期、女学生は、教養ある女性を代表する存在で、時代風俗の象徴として注目されていましたが、そのスタイルは変遷を極めました。当初は町娘の着流しスタイル(和服に丸髷)でしたが、椅子に座り授業を受ける際、裾が乱れるとの理由で、男袴の着用が強要されました。しかし袴は男性のみが用いるものとして着用には反対が多く、明治16年に廃止されます。同年に鹿鳴館が設立され、初代文部大臣森有礼が洋装を奨励しましたが、ふたたび国粋主義が強まる中で明治22年に暗殺され、洋装は廃止されています。その後再び着流しに戻りますが、機能面の問題から、当時華族女学校が採用していた紫色の女はかま(ちょうちんハカマ、股がないスカート状の袴)の色を替え着用するようになり、明治30年代半ばに定着しました。ちなみに、紫は当時華族が用いる高貴な色で、そのままでは畏れ多いことから紫はタブーとされ、それに代わる色として海老茶色が多かったところから(紫式部ではなく)海老茶式部と呼ばれました。なお、女学生は明治33年に1万人、35年には2万人を数え、粗製濫造と呼ばれましたが、まだまだ少数で、庶民から見れば手の届かない存在でした。

海老茶式部(復元品)

海老茶式部
(復元品)

当時、最先端の乗り物だった自転車に乗る女学生。女袴を穿き、髪を高く結い、革靴を履いて通学した。着物はもともと高価だが、学生同士が華美を競うためさらに高額となり、洗濯も洗い張りしなければならないなど手間がかかったため、洋装に取って代わられることになる。

明治に入り、女性の健康と体位向上が叫ばれる中、1905年(明治38年)に女子高等師範学校教授の井ノ口阿くりによる『女生徒の運動服』が提案されました。セーラー衿のついた上着と、膝丈のブルマーからなる体操服で、同教授が欧米を視察した際、体操授業で着用されていたブルマーからヒントを得たものでした。これが日本におけるブルマー提案の最初であり、また見方によっては女学生のセーラー型制服の最初です。
しかし当時の保守的な女性観と着物主流の時代背景のために、普及はしませんでした。やがて大正時代に入り、女子の体操普及が容認されると、ブルマーは女性を解放するものとしてにわかに脚光を浴び、またこれが洋装制服としてのセーラー服誕生の伏線になっていきます。ちなみに井ノ口阿くりは、日本女子体操教育の母と呼ばれています。

帝大詰襟 明治19年(1886年)採用(復元品)

井ノ口阿くり考案のブルマー型体操服
(復元品)

日本の女子体操教育の母と称される井ノ口阿くり教授が、女子体操教育普及をめざし、欧米視察の体験のもと、身体各部を圧迫することなく自由に運動できる服として提案した体操服。教授は同時にスウェーデン体操も日本に導入しているが、当時は女性が体操するなどとんでもないとする保守的な女性観のため、どちらも普及しなかった。ちなみにブルマーとは、アメリカの女権拡張論者アメリア・ブルマー氏が着用したところから名づけられ、当時は女性を解放するシンボルだった。

帝大詰襟 明治19年(1886年)採用(復元品)

第一高等女学校の丸髷・ブルマー姿の体操風景

(第一高等女学校史より引用)

帝大詰襟 明治19年(1886年)採用(復元品)

井ノ口阿くり提唱のブルマーとセーラー服の図

(井ノ口阿くり 体育乃理論及び実際より引用)
明治のセーラー服は、ブルマー型体操服として導入されたが、保守的女性観のため普及は限定的だった。

セーラー服は、19世紀半ば、イギリスのエドワード王子が幼年時代、隆盛を誇る英国海軍水兵を真似た服装をして評判となり、19世紀後半にハイソサエティの子供服として大流行した経緯がある。
そのため、明治期の子供向け洋服といえば、男女を問わずセーラー服がポピュラーだった。
理由は、身体に対して頭の大きい子供でも上から被って着やすいこと、ボタンが少なく幼児でも簡単に着られること、何よりかわいく見えることが挙げられる。

海老茶式部(復元品)

男の子のセーラー服姿(復元品)

セーラー服は今日のように学校制服として定着する以前、19世紀後半のヨーロッパでは子供の晴れ着として男女を問わず流行した。日本には、明治に入り、洋行帰りの人たちが持ち帰り、後には日本の洋装店が作るようになったが、非常に高価であった。

海老茶式部(復元品)

エドワード王子の水兵姿

(The Life and Times of Edwardより引用)
19世紀半ば、話題となったエドワード王子の水兵姿。この後、子供服としてヨーロッパで流行し、20世紀に入ってからは婦人ファッションとしても人気を集めた。
福岡女学院にやってきたエリザベス・リー校長が着ていたセーラーファッションが、生徒たちの憧れるところとなり、後に制服に採用されたほど、当時は画期的なスタイルで人気があった。

大正に入り、欧米文化が憧れとともに紹介され、洋風生活が庶民にも認知される時代になりました。当時の先端職業であった電話交換手、看護婦など職業婦人の洋装化が徐々に進んでいたことや、関東大震災の際、動きにくい和服で逃げ遅れ焼死や溺死する人が多かったこと、また欧米先進国から届いた救援物資の洋服などが洋装化の進展を後押しすることになります。
また、それまで女子体操に否定的だった世論が一転し、女子体操教育が見直されたこともあって、女学校では、綿織物のちょうちんブルマーや、セーラー服に代表される洋装制服が広まることになりました。この時代、洋装化推進の原動力となったのは、明治期に設立され規模を拡大してきたミッション系の女学校でした。なお、洋装制服は明治16年に華族女学校などごく一部でバッスルドレス型の洋装制服が採用されましたが、限定的で、本格的な普及はこれら先駆的な学校の採用を待たねばなりませんでした。

海老茶式部(復元品)

最初のセーラー襟のついた洋装制服
平安女学院(京都市)
1920年(大正9年)採用(復元品)

大正デモクラシーの中で女子教育や体操教育の必要性が高まり、また和装は高価となるなどの理由から、女学校では洋装が検討されるようになった。 日本で最初にセーラー襟のついた洋装制服を採用した平安女学院では、礼拝奉仕する修道女的なイメージや、和服の着物襟に近くなじみがあるなどの理由で、セーラー衿のついたワンピースを採用し、大変な人気となった。

海老茶式部(復元品)

平安女学院セーラー服
(平安女学院125年史より引用)

洋装制服を着た生徒。

海老茶式部(復元品)

福岡女学院セーラー服
1921年(大正10年)採用(復元品)

1921年(大正10年)に初めて採用されたスタイルを、現在に至るまで継承している福岡女学院。当時来日していたエリザベス・リー校長が着用していた服が発端で、制服検討を重ねて採用された。より体操に適した、上下セパレーツのセーラー服(上着とジャンパースカート)という点では、これが最初で、その独特な姿は人気を集め、全国に波及するきっかけとなった。

海老茶式部(復元品)

福岡女学院セーラー服
(福岡女学院105年史より引用)

セーラー服を着た生徒。制帽はベレー帽だった。

旧制高校は、1894年(明治27年)の高等学校令によって誕生し結果的に大学予科となっていきました。戦後の学制改革により誕生した新制高校とは本質的に異なるため、親しみを込めて旧制高校と呼ばれています。全国に41校(台北、旅順、京城など5校を含む)あり、3年制(後に7年制もあった)で生徒は男子のみでした。
旧制高校制度が生まれた背景は、西欧文明と学術文化の導入を急ぐ帝国大学では、外国語による教育が必須であったため、外国語の予備教育課程が必要となったことでした。帝国大学への進学特権を持つエリート校でしたが、単なる予科ではなく、独自の方針と学生文化を持っていました。
当時の先進国であった独、仏、露、英などの外国語を集中的に学び、哲学や文学を語り、勉学にいそしんだといわれていますが、ユニークなのはそのスタイル。一見、現在の着崩しに通じる弊衣破帽、腰に汚い手ぬぐいをぶら下げ、下駄にぼさぼさ髪の学生が多かったのは、虚飾を排し内面の充実をめざす心意気を、外見で表現しようとする、エリートゆえの屈折表現だったようです。

海老茶式部(復元品)

学帽、トンビ(コートの一種)姿の旧制高校生(所蔵 旧制高等学校記念館)

痛めつけた学帽、ぼろぼろの制服やトンビと呼ばれたコートに身を包んだ。ちなみに岡山県を例にとると、岡山市に六高があったが、六高の六とは、6番目に設置された高校であるところから名づけられ、ナンバースクールと呼ばれた。