日本の学ぶスタイルの変遷
(江戸時代)

泰平の世となった江戸時代には、士農工商の身分制度が確立され、武士子弟は幕府直轄学校や諸藩の藩校に学び、庶民は寺子屋で読み書き算盤を教わりました。また郷学や私塾など、多様な教育形態も出現して教育が普及し、文学では読本、滑稽本、人情本、俳諧、舞台芸術では歌舞伎、浄瑠璃、美術では浮世絵、文人画など高度な庶民文化が咲き誇りました。江戸の人口は世界最大となり、当時の日本は、世界で最も識字率が高かったことが明らかになっています。江戸幕府の学問の中心となったのは、幕府直轄の昌平坂学問所(昌平黌=しょうへいこう)で、文治政治を進めるために諸藩に学問を奨励し、身分制度の正当化のため儒学の中でも特に朱子学の普及に努めました。後には、諸藩の藩校のモデルとなり、江戸時代後期には、藩校の教師養成の場ともなりました。

藩校は主に藩士の子弟のための教育機関で、農工商民の上に立つ指導者層になるための人格の形成と、教養の習得を目的とした古典教育が中心でした。7歳頃から入学し、四書五経を中心とした漢籍の素読と習字を主に習い、体力がつくと剣術などの武芸を学びました。ちなみに最初に設立された藩校は花畠教場で、名君の誉れが高かった岡山藩主池田光政が寛永18年(西暦1641年)に作っています。 その後、江戸後期にはほぼ全ての藩に広がり、255校を数えました。岡山県は戦前から「教育県」といわれ、教育熱心であることを自負していますが、背景にはこうした偉大な先人の業績があることを忘れてはなりません。 なお、有名な藩校として、会津藩の稽古堂(西暦1660年頃、後の日新館)、米沢藩の興譲館(1697年)、長州藩の明倫館(1719年)、熊本藩の時習館(1755年)、薩摩藩の造士館(1773年)、秋田藩の明徳館(1789年)、水戸藩の弘道館(1841年)などがあり、地方の特色ある学芸と文化の向上に大きく寄与しました。

藩校異聞

今日、「藩校」の言葉からは、藩のエリート養成校と連想する人が多いでしょう。しかしそのカリキュラムは、軍学や為政学の専門家を育てる発想はなく、情報技術や計数管理、攻城の基礎となる工兵技術や冶金、治山治水などの自然科学知識は欠落し、学生も自然科学の知識という点では、驚くほど幼稚であったようです。 藩校とは武士という人格者を育てる学校ではあっても、戦争技術者や、藩民を治め産業を起こす事業家や能吏を育てる仕組みはなく、見方によっては、欠陥だらけのカリキュラムを悠長に教えていたと評する人さえいます。これは、さまざまな制度が江戸初期に確立して世襲化され、その改廃はご法度とされて踏襲主義となった結果、武士の上級職に実務知識や才覚は求められず、実務をになう下級武士も、専門知識は代々家伝相続であったため、表立った改善はなされず、関心の対象になりにくかったことなどが主な原因です。

漢学(外国語を学ぶこと)の意義

時の先進国であった欧州諸国、たとえば英国の貴族や富裕階級が入学したパブリックスクールでも、ギリシャ語やラテン語などで書かれた古典文学作品を学び、ラグビーやフェンシングなどのスポーツで体を鍛え、国家の指導者育成をめざしていました。西洋と東洋の違いはあれ、思春期に外国語と格闘することで知力を鍛錬し、幅広い教養と識見を身に付けさせる教育方針は共通していたようです。

町民や農民子弟のための零細な私塾で、教育熱を背景に、城下町から農村まで全国津々浦々に誕生し、教養のある浪人(武士)や僧侶が先生となり、読み書き算盤と平易な道徳を教えました。寺子屋で読み書きを習った多くの町民や農民が、世間を渡る知恵をつけ、さらに洗練された文芸や舞台芸術を下支えしたともいえるでしょう。現代でも小学校―中学校―高等学校―大学という正規の教育機関のほかに、各種の塾が花盛りです。江戸時代の頃も、世間を渡るために最低限の教育を子供に受けさせようという意欲は高かったと言えます。

寺子屋で学ぶ子ら(復元品)

寺子屋で学ぶ子ら(復元品)

庶民の子供たちは、全国津々浦々にあった寺子屋で、読み書き算番と平易な道徳を学んだ。当時世界でも高いレベルにあったとされる庶民文化や、精緻な工芸・建築、勤勉で素直な国民性は、寺子屋教育制度の賜物であった。

藩校と寺子屋の中間的な存在で、下級武士、郷士、町民、農民の幅広い層の子弟を対象に、読み書き算盤から、四書五経の漢籍、あるいは和算などの数学まで色々な科目を教えました。藩が設立した藩校の分校的なもの、藩と町農民が合同で設立したもの、町農民が設立したものとさまざまでした。藩が設立したものでは岡山藩の閑谷学校(しずたにがっこう、西暦1670年)が最初の郷学として有名です。

江戸時代後期になると、高度で実用的な学問として、医学を軸とした蘭学を教える私塾が誕生し、身分の隔てなく優秀な若者を教育しました。この中から、幕末・維新の優れた人材が輩出しています。代表的なものでは緒方洪庵の適塾が有名です。

藩校で学ぶ科目は漢籍が中心で、現在のような数学、理科、物理、化学、生物、地理、保健などはありませんでした。漢籍は儒教の大学、中庸、論語、孟子の四書と、易経、詩経、書経、春秋、礼記(らいき)の五経が中心で、いわば古典による人文教養主義の教育といえるでしょう。しかし数学や農学は、学校教育の対象にはならなかったとはいえ、世界のトップ水準にあったことがわかっています。たとえば日本独自の「和算」は、江戸中期から後期にかけて関孝和を始めとする優れた数学者が相次いで現れ、高度に発達しています。また農業では、全国各地で篤農家が現れ、米をはじめとする作物の栽培技術が大きく発展し、農業生産高が大きく伸びました。農業技術は当時、世界でも最先端の水準にあったと言われています。

この時代の生徒のスタイルは、武士階級(藩校)、裕福な階級(郷学)、庶民(寺子屋)と、階級によって厳とした区別があり、武士階級では裃(かみしも)に準ずる扱いの羽織と、袴を日常的に着用し武士の威儀を示していましたが、庶民階級は単衣(裏無しの着物)または綿入れを着ていました。なお、羽織は、時代を経るにつれ、裕福な庶民層にも広がっていきました。

武士子弟の容儀(復元品)

武士子弟の容儀(復元品)

士農工商の身分制度を維持するため、武士階級には尊敬を集めるに足る威厳と教養、人間性が求められた。携刀、髪型から着るもの、言葉遣いに至るまでが他の身分と異なり、馬に乗ることを前提とする袴、裃や羽織などのアイテムが特徴であった。