ユニフォーム研究室長 佐野勝彦


日本においてセーラー服といえば、女生徒の学校制服を意味するほど、セーラー服は学校生活に溶け込み、日本の風景になじんでおり、今なお中学校では半数以上、高校でも2割強で採用されているロングライフアイテムです。セーラー服をこのように多数が着用し愛用している国は世界を見渡しても日本以外に見当たりません。

セーラー服は、1857年にイギリス海軍でデザインされ、各国海軍もこれに習って導入しました。その後、海軍幼年学校の制服に採用されたことが契機となって、19世紀後半には子供服としてポピュラーになり、男の子は水兵と同じようにズボン、女の子はスカート姿が定着しました。ちなみに日本海軍は、1872年に水兵の制服として採用しています。

その独特で、かわいいスタイルを、ヨーロッパ各国の学校が、制服にしたのは無理からぬことで、19世紀末から第2次世界大戦頃まで、多くの学校で女生徒はセーラー服を着ていました。ただ、20世紀前後に採用された初期のスタイルは、上着やリボンは現在のものとほとんど変わっていませんが、スカートは当時の婦人服と同じように、細く長く、くるぶしあたりまであったのでプロポーションの点で大きく異なっていました。

そして、20世紀に入りセーラー服は、ヨーロッパで、婦人服のニューアイテムとして登場します。当時のヨーロッパは、女性が身体的に活発になる時期で、自転車が発明され、ビーチ遊びやテニス、クリケットなどのスポーツが先進的な女性に広まった時期でした。そんな精神的にも身体的にも高揚した時期に、スポーティで、しかも海のイメージがある独特のデザインはぴったり当てはまり、とても流行したようです。



日本に初めて学校制服としてセーラー服が導入されたのは諸説ありますが、1920年(大正9年)に京都の(現)平安女学院が採用したのが最初 (それまでは「着物にちょうちん袴スタイル」だったものが「濃色のワンピースにセーラー衿がついたスタイル」となりました)で、ついで福岡女学院が1922年(福岡)、フェリス女学院(東京)、金城学院(愛知)などが相次いで採用しています。ただし、セーラー服をどう定義するかで、いろいろ解釈できます。最もはやく洋服を導入したのは平安女学院(京都)で、これは異論のないところですが、当時のそれは、セーラー衿の付いた濃色のワンピース型でした。現在一般的にセーラー服と呼ばれている上下セパレート型でリボンのついた洋服を採用し、しかも、それをそのまま継続している学校という点では、福岡女学院が最初だといえます。従って、女生徒の制服を本格的に洋装化したのが平安女学院(セーラー衿のワンピースを採用)現在に至るセーラー服デザインを最初に採用したのが福岡女学院(上下セパレート型でリボンのついた洋服)と言うのが適切な表現かもしれません。(ちなみに制服の洋装化という点では、詰襟が早く、明治10年採用の学習院に遡ります)

ところで、すこし専門的になりますが、セーラー服導入の直接的なきっかけは、日本の場合女子の体格向上と健康増進のため体操教育を取り入れることから始まっています。近代的体操のためには、従来の和服では不都合で、洋服を考えたのがひとつのステップとなって、セーラー服に行き着いた経緯があります。また、当時の女子教育理念上からも、セーラー服はイメージにぴったりでした。セーラー服の特徴である大きく胸から開いた衿、リボンやプリーツスカートの柔らかな曲線など、それまでなかった特徴は、当時の日本の教育理念であった『良妻賢母』をスマートにイメージするものとして受け入れられたのだろうと思われます。

セーラー服が採用されだした大正10年前後は、生活様式の洋風化が進みだした頃でした。当時、女学生はまだ数少ないエリートであり、これらの学校で採用されました。当時としてはとてもモダンなセーラー服は、エリートイメージとあいまって好意を持って受け入れられ、女学生=セーラー服のイメージが急速に広まっていったと考えられます。ただ当時、日本には大規模な既製服産業がなく、セーラー服の供給は、学校近辺の仕立て屋さんが生徒の求めに応じて作るものであったり、また、上級生が洋裁の勉強をかねて下級生のためにつくるような仕組みになっていました。中には、母親や姉、または洋裁ができる祖母が、新入学の女の子のために生地や材料を求めて作った地域もあったようです。

その後、日本が日中戦争に突入した頃から、物資難や繊維統制などにより、セーラー服は受難の時代を迎えます。国民服が幅を利かす時代となり、セーラー服は上着のみで、下はもんぺでした。しかも衿のラインテープが手に入らず一本線だったり、生地を節約するために衿裏がなかったり、といった具合だったようです。生地も手当てが難しくなって、繊維の産地では特色のあるセーラー服ができています。絣の産地では絣生地のセーラー、再生糸工場の近辺では木綿布の霜降りセーラーなどもあったようです。





敗戦後、日本の教育制度はいったん白紙となり制服も同様の状態になりました。

敗戦後の物資不足から制服調達ができない、という物理的な理由とそれまでの軍国主義教育との決別の意味合いもあり、そうなったのですが、昭和22年に新しく学校教育法が公布され、6.3.3制などが形を整え始めた頃から、まず私立学校、次いで公立の中高が競うように制服を定めました。驚くべきは、新時代の教育を標榜する学校が新しく定めた制服の大半が、従前のセーラー服と詰襟だったことです。そして、この現象には深い意味が隠されていたようです。

戦前、制服の2大アイテムであった詰襟、セーラー服は、高等教育を受けることができる少数のエリート層が着るものだったような印象があります。それが、戦後、教育は一挙に自由で平等な権利となり身近のものになりました。それまで、憧れであっても手の届かない存在であったセーラー服と詰襟が、いまやどこの学校が採用してもかまわないアイテムになったということが、その最大理由ではなかったか、と想像しています。また、産業的な側面から見れば、昭和20年代末から当時革新的といわれたナイロンやポリエステルの量産化時代に入り、それら合繊と天然繊維の混紡技術が確立され、制服も含め既製服産業が徐々に大きな力を持ち始めています。つまり、戦前には高額だったセーラー服が、普及価格帯になってきたことも、セーラー服浸透に追い風となったことは容易に想像できます。

ちなみに、当社がセーラー服製造を始めたのは昭和30年代はじめあたりで、そのきっかけは、当時、合繊詰襟で関係の深かった合繊の雄・東レが大量に作られる合繊素材の用途開発を本格化させ、小学生の通学服に力を入れだしたのに呼応しています。その後、団塊世代が成長するにつれ、昭和40年代には学園紛争による制服自由化のうねり、また、その子供たちが入学する時代にはお受験ウエアや、個性的な制服としてのブレザーブームが巻き起こり今日に至っています。

振り返ってみれば、日本にセーラー服が導入されて90年弱。導入当時に比べ素材や仕立ては格段に良くなり、いまやスカートのプリーツを寝押しするようなことはなくなりました。機能性や耐久性、着心地やイージーケア性などを実現するためさまざまな新技術が採用されていますが、一見した見かけがほとんど変わっていないことに驚かされます。また、伝統あるスタイルに誇りを持って、外観は頑として変えず、何十年と着続けている学校もたいへん多いようです。

おそらく単一アイテムでは日本一いや世界一たくさん着られているセーラー服。
ベストセラーどころではない、100年デザインというのは、こういうものを指すのでしょう。